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昨日来た道 帰る夢

 

この夏の猛暑も身に堪えたが、急に吹き始めた秋風は、より身に浸みる。

当ても無く歩く道のすれ違いざま、若い女の子が、あからさまに嫌悪顔を見せてそっぽを向く。分かっている、俺だって。もう若くは無い事ぐらい。それでも……。

 顔を曇らせ、とぼとぼと歩きながら思う。

 

始めは、若い女逹が鼻の上へ皺を寄せ、プイと横を向くようになった事からだった。今まで女逹のハートを鷲掴みにしていた声で、幾ら呼び掛けても。

何時しか、こちらから声を掛けても、完全無視で声高にしゃべりながら通り過ぎて行くようになった。まるで、当て付けているかのように。

そして、ある日の事、若い女逹が、言っていた。

「彼奴、自分の歳が分かってるのかしら!」

「若造りしてさあ!」

「これだから、年寄りはねぇーっ!」

こそこそと寄り集まって、それでいて、これ見よがしに。

ショックだった。若い奴等と遣り合う気力まで、一気に失せてしまった。

俺はもう、そんなに、男として魅力が無くなったのか?

 背を向け、茫然自失の内にそのまま立ち去る。行き先も定めぬままに。

 

故郷を飛び出したのは、何時の事だったろうか?

ただただ、衝動に駆られて走った。

方角も、距離も、頭には無かった。

ただただ、走りに走った。

あの時、故郷を飛び出したのは、何故だったのだろうか?

突然、身体の芯から湧き上がるムラムラとした衝動に駆られ、走り出していた。

行き先も、目的も、頭には無かった。

ただただ、走りに走った。

 重い歩みに視線を落とし、思い出す。ありありと、あの日の事を。

 

思い出せば、ただ一つだけ、気になっている事がある。それは、ジュニの事だ。

  あの日、あの時、俺の後を追って来たジュニ。

  必死の形相で追って来たジュニ。

  俺の名を呼びながら、追い縋って来たジュニ。

俺はあの時、ジュニを追い払った。激しい言葉で「帰れ!」と、追い払った。

ジュニはあの後、一人で故郷へ帰れただろうか?

帰ったジュニは、妹のテンテンと仲良くしているだろうか?

ちょっと口喧しいが、気が利いてしっかり者のテンテン。

ジュニとテンテンならば、似合いの夫婦になるだろう。

二人に纏わり付く、可愛い子供達の姿を想う。幸せな家族の姿を。

 とぼとぼと歩みつつも、ふっと笑みを催す。

 

出来る事なら帰りたい。

故郷を飛び出し、走りに走った道を、逆に走って。

あの日の道がまるで、昨日走って来た道のように思い浮かぶ。

昨日来た道――本当に、ありありと。まざまざと。脳裏に、思い浮かぶ。

だが、いざそれを辿ろうとすると、思い出の道は陽炎のように揺らめき不確かとなり、記憶の渓谷から湧き上がる霧が行く手を阻む。

蜜々と充満した霧は、記憶の地平を覆い尽くし、白々と聳える巨大な長城のように、行く手に立ちはだかる。

 遂に、歩みを止め、疲れた肢体を投げ出し、路傍に横たわる。

 

昨日来た道、帰る夢――うとうととした眠りに、ふと現れる。

本当に、昨日来たような気がする道。懐かしい匂いの香る道。無性に、辿って帰りたくなる道。それを辿って帰る夢。

だが、所詮は夢。帰る道など有りはしない。そう! 在りはしないのだ。

領分を失った者には、家は無く。当てど無く行く道には、宿すら無い。

昨日来た道など無いのだ。

生まれ故郷を飛び出したその日から。

 露が降り、冷え切った身を起こし、また歩き出す。とぼとぼと。よたよたと。

 

当ても無く歩く道が、何処へ続いているかなど、もう、どうでもいい。

俺はもう、親父と同じ歳頃に成っている。そろそろ初老、と云う歳に。

 お袋は、言っていた。

「歳を経た者には、それなりの魅力が有るのよ。母さんは、それが分かる女なの!」

 と、ふふっと笑って。

俺には、親父のような‘歳を経た者の魅力’が、無いのだろうか?

お袋は、親父の何が気に入っていたのだろうか? 聞いてみたいものだ。お袋に。

だが、お袋も、親父も生きてはいまい。俺がもう、こんな歳になってしまったのだから。

 よろよろとした歩みに、ぼんやりと思う。

 

行く当ても無く歩く俺の事など、女逹は見向きもしない。まるで、路傍の石ころのように。

喪失感と無力感に打ちひしがれて、とぼとぼ歩く。当ての無い道を何処までも。

 歩きながら、思い出す。親父の事を。

 

親父は、能く遊んでくれた。終日、飽きもせず。そして俺は、あの頃の俺は、親父とのそんな日々が永遠に続くように思っていた。

考えてみれば、不思議な行為だ。俺は子供と遊んだ事など無い。‘子供と遊ぶ’などと云う事は、全く思いも付かない事だった。今の今まで、頭の片隅に浮かぶ事すら無かった行為だ。

思い出せば、あの時の親父の顔は、とても穏やかだった。そして、満ち足りた目をしていた。

子供と遊ぶ事が、そんなに楽しい事だったのだろうか?

急に消えてしまった日の前日まで、ずっと、親父はあの穏やかな顔で、終日、遊んでくれた。

俺は今、あの時の親父のような顔をする事が出来無い。どうしても。

俺は今、どんな顔をしているのだろうか? この失意のどん底で……。

 ただ歩く。歩き続ける。行く当ても、帰る道も無くしたまま、何処までも。

 

歩き続けているうちに、何故か、親父の臭いを、思い出した。

いや! 親父の臭いがする。微かだが、確かに、親父の臭いだ!

「親父!」

 思わず小走りに駆け寄る。

 

それは、古びたベッドだった。街角のゴミ置き場、他のゴミと共に積まれた、色褪せ、擦り切れ、廃棄されたベッドだった。

俺は、それへ倒れ込むように横たわった。もう、歩き続ける気力も体力も無い。

俺は、そのまま眠った。

そして、夢を見る。昨日来た道、帰る夢を。

親父の優しい背中に追い付いて、一緒に並んで歩く夢を。

昨日来た道――懐かしい匂いの香る道。無性に、辿って帰りたくなる道を、親父と共に歩く夢……。

 


 

 アキラは、六弦ベースのベーシストである。バンドを組んだのは、十四歳の時だった。バントを続けるには、音楽機材とその維持管理だけでも金が掛かる。ましてや、ライブをするとなれば、なかりなものだ。

 アキラは、在学時代は色々とバイトをした。卒業直後は、市立図書館で司書をしていた。だが、結局、バンドの関係から、フリーランス・セッションベーシストへと転身する。そして、セッションベーシストとしては、年間、百五十公演を超えるサポート実績を上げていた。

 しかし、既に‘アラサー’の年齢であるアキラは、今年、七年ぶりにバンドを再結成した。そして、バンド以外での演奏を自粛し、自身のバンド活動に特化している。それと共に、再び就職――某企業の営業職に付いた。それは、自分のバンド活動に専念するためであり、生活のためである。なぜならば、アキラは、三年前に結婚していた。妻は、アキラと同じくベーシストである。

 アキラは今日、スタジオで、バンドの相方と共に、編曲・リハーサルをする事になっていた。その移動に、ギターとベースを一本ずつ持って出る。

 アキラは思った。

「なんかこうやって、複数本の楽器を持って歩き回るのって、久しぶりだよな」

 アキラはプロを志した時、不必要に何本も楽器を持ち歩いていた。

「『いつも何本も楽器を持ち歩いて、いつでもどんなニーズにでも対応出来る! それがプロ!』なんて、思っていた。そんな気分に浸っていたんだよなあ。あの頃は……」

 アキラは、思わず微苦笑を浮かべる。

 実際にセッションの仕事を始めてみると、何本ベースを持って行っても、音色がマッチしない事が幾らもあった。

 アキラは、棹ごとの音色の個性が問題を解決してくれる事など無く、棹から依頼人の求める音色を引き出せるかどうかは、演奏者のスキルが切り拓くものだと、身を持って知った。そして、「一本のベースで複数の音色を操り、極力全てのニーズに対応する! それがプロ!」の方が、実際に近いと気付き、六弦ベース一本で勝負するようになった。

 だから、こうやって二本も持って電車移動と云うのは久しぶりで、あの頃の事を思い出し、何処と無く、こそばゆいような感じがしていた。

 

 今は、居住地となった隣県の市の駅から電車に乗り、いつもの駅へと着いた。

 アキラは立ち止まり、駅の構内を見遣る。

 目の前に在るのは、以前と変わらぬ景色だった。

 最新の設備など、全く無い。一番新しいのが、二十世紀末に導入された型の公衆電話だ。それに加え、公衆電話より前から変わる事無くそこに在り続けているであろう、コインロッカーとベンチ――何とは無く、ノスタルジックで、最近の便利になった弊害だらけの世界から隔絶されていた。

 アキラは呟いく。

「凄くピュアな景色だよな」

 考えてみれば、アキラはこの駅を、二十五年前から使っている。

 そして、バンドを組んだばかりの頃、この駅の下りホームで、楽器店のロゴが印刷されたソフトケースに「安物だけど自分にとって大切な、自分の楽器」を入れて、隣県の市に向かう下り電車を待つ――と、云う事が、幾度とあった。その時の景色と能く似ている。

 アキラは構内を大きく見回し、再度呟く。

「この町、この駅こそが、うちのバンドの拠点――と言える場所だよな。例え今僕が隣県の市へ住まおうと、回帰すべき原点……」

 今日は、この駅からスタジオに向かうのだ。

 アキラは背筋を伸ばし、駅を出た。

 

******************

 

 アキラがバンドを始めて十七年――考えてみると、相方とこんなに真剣に編曲をやるのは初めてだった。アキラ自身、色々と作詞はしても、最近まで大した曲は書けなかった。相方も、ライブのときにインプロヴァイスでどうにかすればいい、と云う発想が強かったのだ。

 アキラは思った。

「バンド活動休止から七年。お互い、色々あったんだ……」

 相方は言った。

「少なくとも五線譜上はロック系じゃない。要は、ベーシストの腕次第だな」

 これも、アキラの性格を熟知した結果の発言であり、二十年来の旧知故である。そして、今まで、バンドの将来性とか音楽性とか云った事は、一切、発言しなかった相方が、

「この曲が、僕らの音楽性、真の姿を示していると思う」と、言った。

「これまでは、『お客さんがノリ易い』だとか『この手の曲は今、人気がある』とか――そう云った事を、調査や計算して曲を書いていた。でも、今回は、僕らが自分自身を欺かないで自分たちの特性を出したらどうなるか、それが出ている曲だと思う」

 そして、アキラは、今日の編曲作業で、

「確かに今やっている。この作業、これぞ、俺らの真髄である」と、思った。

 それは十年前、アキラと相方が、プロを目指すと決めた時、お互いに目標と定めた事――目指すは、曲展開は予想出来た中で、最も意外だったもの。転調は気付かれないように、さりげなく。聴けば易しく、弾けば鬼のように難しい曲を――そう云った作曲であると。

 

 その後、話題は、アキラのヴォーカリストとしての事に及んだ。

 相方は、

「十七年目にして初めて、アキラの声域を理解したぞ。曲とは、声域に合わせて書くものだから、ヴォーカリスト探しが急を要するな」と、笑った。

 アキラも、

「お互い、考えていることが一致したな。バンドに、メタルが歌える女性ヴォーカルを入れよう」と、笑って応じた。
 更なる話し合いで、「ツインヴォーカルとしてアキラは、ベーシストとヴォーカルの兼任を継続し、女性ヴォーカルとお互いに異なる声域、トーンを上手く使う」と、云う事になった。思うように実行出来るかどうかは、定かではない。しかし、近々、実験する事にした。

 アキラは思った。

「結成十七年。今、うちのバンドは、大きな変化の際に立っている」と。

 


 

 アキラは、隣県の市のマンションへと引っ越していた。引っ越し先のマンションは、‘ペットと同居可’である。妻が猫好きで、「猫を飼いたい」と、希望した事による選択だった。アキラ自身も行き掛かり上とは言え、司書勤めの頃は猫と同居していたので、全く異存は無かった。

 「引っ越していた」と前述したが、その実は、「今日を以て、引っ越し完了」と言うのが、最も現状に近いだろう。

 アキラは、引越し業者でのバイトをした事もあり、また、自分の楽器やそれに関する物品を見知らぬ人が扱うと云うのは、どうしても気が進まず、音楽仲間の友人に手伝って貰い引っ越した。友人達の都合もあり、間を空けつつ、三日に分けての荷物運びだった。

 そして今日は、アキラも妻も「立つ鳥跡を濁さず」の主義なので、午前中、二人で最後の掃除をし、大家さんへ挨拶に行った。大家さんのお婆さんからは、「まあ! そこまで綺麗にしなくてよかったのに。不可解な音楽をやってる、最近の若い人に似合わず、古風で律儀なのねぇ!」と、妙に感心され、「またこの辺りへ来る事があったら、お寄りなさいよね」とまで、言われてしまった。

 アキラと妻は引越し挨拶がてら、能く行っていた近所の大衆食堂で、昼食を済ませた。

 午後からアキラは、近くのギター教室へ挨拶に行く事にしていた。半ばボランティアだったが、アキラは、そのギター教室でベースを教えていたのだ。だが、それも、今回の引越しで終わりとなる。

 その間、妻は、旧住所の隣の地区に住んでいる、最近猫を飼い出した女友達の所へ、「猫を見に行く」と言う。再合流場所は、旧住所近くの公園前で、と云う事にした。

 

 ギター教室で話し込み過ぎ、アキラは待ち合わせの時刻に、かなり遅れてしまった。妻のむくれ顔を想像しながら、アキラは公園の入り口へと小走りに向かう。

 公園の前には、妻は居なかった。

「あちゃあ……、やっぱり!」

 こんな時、携帯へ「今、何処に居る?」などと妻に電話すれば、妻の怒りはマックスになるのは必定である。アキラは妻を捜して、公園内をぐるぐる何度も巡った。だが、妻は居ない。

「何処に居るんだ? 遅れたから、どっかに隠れてるのか? 別の場所へは行ってないよな。まさか、また、猫友の所へ戻った?」

 アキラは焦って、公園の入り口を出たり入ったり、公園内をぐるぐる何度も巡ったり。

「これじゃまるで、不審者じゃないかよ……」

 幼児連れの母親グループから向けられる視線に、アキラは、口中でぶつくさ呟きながら公園を出る。

 更に、公園の周りの道を何度も行ったり来たりした後、アキラは、遂に、携帯を取り出した。と、その時、

「あんた! あんなに約束しといたのに、約束破って!」

 背後から、妻の剣呑な声が掛かった。

「ご、ごめん! つい、話が色々と……。悪ぃ!」

 アキラは振り向きざま、平身低頭、謝る。

「違うわっ! これよ! この猫っ!」

「へ?……猫?」

「そうよ! 猫は、二人で保護センターへ行って、子猫を選ぶって、あれだけ約束してたのにっ!!

 顔を上げたアキラの前には、声は険しいが、悪戯っぽい笑みを浮かべた妻の顔があった。その手元には、色褪せ、擦り切れた猫ベッド――中には、丸まって、寛ぎ顔で眠る猫。

「えっ!? ウソッ!! ロッグ!? う、う、うそ……だろ? ありえねぇ……」

「へーえっ! 前の猫の短縮名は、ロッグなの! 先生は、『アメリカンショートヘア系ミックス―ヘビーロングヘア・シニア』って、おっしゃってたけど?」

 妻は、思いっきりツンとした顔で大きく横へ向く。が、しかし、アキラの視線は、妻の手元の猫ベッドとその中の猫に釘付けのままである。

 古い猫ベッドは、間違い無く見覚えのあるものだった。それは、アキラが司書だった頃に飼っていた猫が、使用していた物である。そして、その中に丸まっている猫は、アキラにとって、忘れ難い猫――典型的なアメリカンショートヘア模様で、チンチラのように長毛の猫。アキラが司書だった頃に飼っていた猫――に、瓜二つの猫だった。

 

 その猫をアキラが飼うようになったのは、偶然の行き掛かりからだった。

 それは十年前、アキラと仲間達がプロを目指すと決めた年の、夏の暑い日だった。いつも使う駅の構内――プラットホームから出入り口へと向かう歩道橋階段の中段の隅に、その猫が蹲っていた。

 アキラは一瞬、自分の目を疑い、数度、瞬きをした。が、確かに、猫がそこに居た。皆が足早に通り過ぎて行く中、アキラは思わず立ち止まり、そちらを注視する。

 と、猫のしょぼしょぼ目と、視線が合った。その目は、救助を要請していた。

 アキラは真っ直ぐに猫に近寄り、抱き上げた。猫は何の抵抗も無く、アキラの腕の中へ納まった。

 アキラは駅員に事情と状況を話し、飼い主が現れるまで保護すると申し出た。駅の方でも、その案に即刻同意し、書類の記入をした後、そのまま家へ連れ帰った。

 猫はその晩、水を少し飲んだだけだった。どうしたら良いか分からず、翌日、務め先の図書館で猫好きの同僚に、何処か近くに良い動物病院はないか訊いてみた。同僚は、アキラの住まいの近くに、丁度良い動物病院が在ると紹介してくれた。「そこの先生は、野良猫でも診てくれるし、料金も良心的でリーズナブルだから、アキラでも支払えるよ」と、言って。

 そこは、アキラの住まいの学区内に在った。先生は、動物園で元獣医をしていた四十歳ばかりの男性で、動物病院をする傍ら、地域猫運動に協力していた。それと共に、以前入植した人が持ち込んで、今は無人島となった島で野生化し、自然環境を崩しているとして駆除されている猫を保護し、飼いたい人へと引き渡たす活動もしていた。そして、「人に、生き物の総てが分かるなんて、思う方がおこがましい! 生物が持っている本来の力は凄いんだ。個々の生命力を、信じよう!」が、口癖の、気さくな先生だったので、アキラも遠慮無く、事情も話せたし、色々と質問や相談も出来た。

 先生の見立てでは、「年齢が十歳超えの老体の雄で、生来の野良だろう。もし、人に飼われていたとしても、野良になってからの経過時間の方が相当に長いだろう」だった。特段の病気も怪我も無く、問題は、暫く飲まず食わず状況だったために起こった、脱水とエネルギー不足。と、云う事で、「これは、少々、緊急事態だから」と言って、点滴をしてくれた。そして、初めは、柔らかい水分の多いウエットな餌を、様子を能く見ながら、猫が自ら食る量だけ、少しずつ与えるようにと、指示した。

 それから先生は、「在野で、自力で、生き抜いて来た猫は、生命力が強い。直ぐに、元気を取り戻すだろう。で、回復し出すと、能く食べるからな。猫餌、沢山買う破目に陥るぞ!」と、横目で、ニタッと笑って寄越した。

 言われたようにすると、猫は三日目から、自分からがつがつと市販の猫餌をしっかりと食べ、劇的に元気になって行った。そしてアキラは、沢山の猫餌のみならず、色々な猫用品まで買い込んでいた。

 駅から「飼い主が現れた」と言う連絡が無いままに、日は経って行き、三か月など瞬く間に過ぎ、猫はアキラの家の猫になった。その間に、アキラも猫も同居生活が日常に成り、猫はバンド仲間とも馴染んでいた。そして、アキラがライブで家を空ける時は、猫は留守番を、難無く勤めていた。

 だが、七年前の春、突然、猫が消えた。

「年寄りだから、どこかでへたってなきゃいいが……」

 と、心配するアキラへ向け、バンドの相方とシンセ奏者は、指を立て、

「ヘビメタロック仲間の猫だ。歳なんて関係無く、ファックしに出てんだぜ!」

「存分にやっちまったら、また、帰って来るって」

 と、ニタニタ笑った。

 一方、ドラマーは、

「猫は、死ぬ時、人に見られない処へ行くって言うからなあ……」

 と、呟くように言った。

 その一か月後、ドラマーは、「就職も決まったし、彼女に子供も出来て、結婚する事になったから」と言い、バンドを抜けた。

 アキラ達は、一緒にバンドが組めるドラマーを探した。が、なかなか見つからず、居てもバンドを組めるような相手ではなかった。結局、バンド活動は、休止となった。

 そして、猫もそのまま、帰って来なかった。

 

 目の前の猫が幾ら、七年前に消えた猫に似ていても、当時、推定年齢が、十歳超えて十四・五歳だった猫が、帰って来たとは信じられない。

「この猫、何処で、どうして……。それに、先生って……」

 アキラはそろりっと、妻の顔を窺う。

「この前の粗大ゴミ日に、色々、ごちゃごちゃ、思い切って出したでしょ。引越しのための片付けをして」

「ああ、出した」

「その時に、前の猫の用品も出したわよね。ほんと、あんたったら、諦め切れずに長年ずーっと、よくも、持ってたものよねぇ!」

「ああ、まあ……。だってさあ」

 アキラは口籠る。

「いいのよ、それは。猫への愛は、そうじゃなくっちゃね!」

 妻は軽く肩を竦め、

「要はね、先週、彼女からメールがあったのよ。『前飼っていた猫の息子猫を飼う気はない?』って。あたし、最初、訳分かんなかったわよ! さっぱり!」

 妻は大きく首を振る。

「彼女、『貴女の旦那の猫ベッドの中に居た猫を保護してるの。だから、見に来て』って言うから、今日行ったわけ。そしたら、このぼろベッドと、このニャンコよ! 覚えが無いとは言わせないわよ!」

「それは言わないけど、何で彼女が、俺がゴミに出した猫ベッドだと、分かったんだ?」

「この猫が、あんたのベースに貼ってある猫写真そのままだったからよ。彼女、家へ遊びに来た時に見て、覚えてたんだって」

「ベースって、ネコベースのか? あれの、写真から……」

 アキラは思わず、ぽかんと口を開ける。

 ネコベースとは、アキラが初めて持ったベースの指版に、猫足型と猫形ステンシルのインレイ・ステッカー(指板の螺鈿風シール)を買って、アキラ自身で貼った物だった。そして胴には、前の猫の写真をシールにした物も、貼っていた。

「それにしても、能く見てたもんだなあ。けど、彼女、ベースに興味なんてあったのか?」

「彼女、ベース自体には、興味無いでしょ。だけど、ネコベースだったからよ。彼女、猫好きだもの。あのベース、猫好きにとっては、可愛いわよ! これからはライブ、あのネコベースでやったら? いいわよー!」

「いやいや! それは無い! それは無い! ヘビメタのライブを、あのネコベースでやるのは、無いでしょう! それに、あれは四弦ベースだし。俺、六弦ベース弾きだから」

 妻の言にアキラは、慌てて大きく首をぷるぷると振る。

「それとね。あんた、古い猫ベッドの中に、前の猫の診察券を入れたままで、ゴミ出し、したでしょう! この猫、それを枕にして、寝てたんだって。」

 妻が、くすりと笑う。

「その時、この猫、かなり衰弱してたから。診察券の病院、場所も近いから、その病院へ連れてってくれたのよ。彼女が。そうしたら、そこの先生、ちゃんと前の猫の事、覚えてくれてたそうよ! あんたの事もね。こうなると、もう、完璧ビンゴ! よね」

 妻は一人、大きく頷く。

「それで、あんた。先生に、前の猫が消えちゃった事、言いに行ってたんでしょ。だから、先生は、『これが、前の猫の子だったら、奇跡だな』って。でもって、『彼に、前の猫の息子を引きとれって言ってみたらどうだ? 歳も、前の猫と同じ、十歳くらいの老猫だぞ。年寄りを放置する気か! と言って、押せ、押せ!』って言われたから、あのメール寄越したらいしの。その上、その動物病院の先生、飼い主が決定するまで、診療代の支払いは保留でいいって言われて、未だ支払いしてないって言うんだもの! 猫の事も『吃驚!』だったけど、先生って人も、結構『驚き!?』の部類よねぇ」

 妻は再び、肩を軽く竦めた。

「で、今日、さっき、彼女と一緒に、先生への支払いと御挨拶がてら、病院へ行って、一応、予防注射も済ませて来たの。それで、この(ひと)の診察券。名前は『アメリカンショートヘア系ミックス―ヘビーロングヘア・シニアU』に、成っちゃってて。その上、わざわざ括弧して、『飼い主のドメイン:地獄一丁目上る』『飼い主の役職:ヘビーメタルロックバンドリーダー』って、書かれてるわよ! 結構、あの先生も隅に置けない程、ロック系じゃない?」

 妻は、猫ベッドを抱えたまま、手品師のように人差し指と中指の先で診察券を摘み、ヒラヒラさせながら大きく肩を竦める。

「はあ、まあ……言われると、確かに。でも、これは……」

 アキラは未だ、この偶然が信じられなかった。

 そんなアキラを置き去りにして、妻は更に続ける。

「で、短縮名は、『シニアセカンドのシニィセコン』かな、と思ってたんだけど、前の猫の呼び名が『ロッグ』なら、呼び名は『ログセコン』くらい? もっと縮めて『ログセン』かな? ま、呼び名は何にしても、彼女に迷惑掛けた埋め合わせに、来春早々、彼女のロロちゃんとこのセカンドを、娶わせる約束、彼女としたからね」

「えええっ!?

 アキラは、思わず大声を上げ、

「何をどうしたら、そんな展曲になるんだ?」と、妻の顔をまじまじと見る。

「それ、展曲じゃなくって、‘展開’か‘話’でしょう! 言うのなら」

 妻も、ぶっと吹き出すような大声を上げる。そして、

「何にしても、彼女、『ロロちゃんは子供を産んで、ちゃんと母猫に成れるんだって事を、ブリーダーに見せ付けてやりたい』って、意気込んでるし、そもそもあたし達も、『子猫を飼おう』って約束してたんだから、親父猫とその子供猫一匹を、一緒に飼ったって、悪くないでしょ!」

 と、挑戦して来るような眼差しを、アキラに向けた。

「だがなあ……。言うのは易しいが、実際問題、鬼のように難しくないか?」

 アキラは、疑念顔で首を捻る。

「その雌猫――ロロちゃん? は、シャーシャー言って、絶対に雄を近寄せなかったから、ブリーダーが廃棄しようとしたのを、彼女が怒って分捕って来た猫だろう? 確か。前に、そう云った話をしてただろ。それにさ、こいつ、十歳くらいの老体猫なんだろ?」

「動物って終生現役のはずよ。特に、雄は。それにロロちゃんは、全くシャーシャー言ってなかったわ。要はね、ブリーダーが、ロロちゃんの気持ちを無視して番えさそうとばかりしたのが悪かったのよ」

「でもなあ、それは、年寄りだから容認。もしくは、無視してたのかもしれないぜ」

「ロロちゃん、無視はしてなかったわよ。今日も、行ったら丁度、仲良くグルーミングし合ってたんだから」

「だから、それは、こいつが年寄り猫だから……」

「あれは、そんな様子じゃ無いわ! 絶対に。それに、彼女も言ってたしね。『歳を経た者には、それなりの魅力が有る』って。彼女、近々、十一歳年上のバツイチ男と結婚するんだって。彼も、とっても猫好きなんだって。だから、とってもいい組み合わせでしょう?」

「はあ!? い、いや、その……。また、もう一つ違う、展曲――展開と云うより、全く別の曲や話だろう、それは……」

 アキラは、更に首を傾げ、

「子猫貰うったって、本当に生まれるかどうかも分からない上に、生まれて来ても、どんな体型や毛色になるか分からないんだぞ。彼女の猫――ロロちゃんは、えらく短足だったからなあ」

「短足って、もう! マンチカンって云う、高級猫なのよ。ロロちゃんは! それにね。どんな子が出来たっていいのよ、見た目なんて。子猫は皆、可愛いものなの!で、猫飼いは皆、『自分の猫が世界で一番!』になるの! ロックな先生も、『この取り合わせ、ロックな見た目の、ロックな性格の子猫が生まれるんじゃないか』って、笑ってらしたわよ」

「はあ……。けどさあ」

「いいのっ! 何たってこの猫は、セカンドよ! セカンドステージって、グレードアップしてるものなんだから、何でもアリよ! さっ! 急いでホームセンターへ行って、‘猫キャリー’買わなきゃ、電車に乗れないでしょ! それと‘猫餌’と‘猫トイレ’と‘猫砂’だけは、最低限、手に入れなくちゃ、今日、家に連れて帰っても困るでしょ。もたもたしてると、家に帰り着く前に、日が暮れちゃうわ。急いで、急いで!」

 有無を言わせぬ妻に押し切られ、アキラは、今まで何かと能く使っていた近場のホームセンターへ、急ぎ足で向かった。

 

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 アキラと妻は、いつもの駅の構内、新居方面への電車が出るプラットホームへ向け歩いていた。

 妻は、当然顔で丸まっている老猫の入った猫キャリーだけを大事そうに抱え、さっそうとした足取りで進む。その後ろを、アキラは、遅れがちになりながら行く。おんぼろの猫ベッドと新品の猫ベッド・猫布団、各種猫餌と猫食器・猫用品一式の入った袋、猫トイレと猫砂袋の包と云う、大物で重量級の荷物を多数抱えて。

「これが、ヘビーメタルバンドの、リーダーの、姿かよ……」

 アキラは、ぼそりと呟く。

「うん? 何か言った?」

「あ、いや。そいつの親父――らしき猫と出会ったのが、この階段の、そこらだったから」

 振り向く妻に、アキラは足を止め、目の前の階段――中段辺りの右隅に顔を向ける。

「あら、そうだったの! こんなとこで!?

 妻は驚き顔で、アキラの視線の先を見遣る。

「そうなんだ。普通、無いよな! 駅の構内に猫が勝手に居るなんてさあ! けど、居たんだよな。そいつと(おんな)しで、脱水状態でへたってた。本当に、偶然……。だけど、もしかしたら、必然だったのかもな。Destiny……」

 

 アキラは思い出す。

 七年前、ドラマーと別れたのも、この駅だった、と。

 そしてこの春、相方がドラマーに再会したのも、ここ――この駅の構内だと、言っていた。出入り口からプラットホームへと向かう歩道橋階段の中段で擦れ違い、思わず、反射的に声を掛けていたのだと。

 その時、相方は、ドラマーの覇気のない、憔悴した様子が気になった。それで、バンドを抜けた後、どうしていたのか。今は、どうしているのかを聞こうと、強引に、ドラマーを喫茶店に引き込んだ。

 結婚したドラマーは、子供が二人出来、極々平凡ではあるが、幸せな普通のサラリーマン生活を過ごしていた。

 だが、最近の不況で、彼の勤めていた会社は倒産し、失業したらしかった。失業後、再就職の口はなかなか無く、お定まりのような展開で、離婚。奥さんは子供を連れ、田舎の実家に帰ってしまったと云う事だった。

「今は、ネットカフェ流浪人状態さ」と、ドラマーは自嘲的に哂った。

 相方はドラマーに、バンドグループへ帰って来るようにと説得した。

 ドラマーは初め、無気力の態で首を横に振るだけだった。それでも相方は、

「俺の知り合いで、小さいがライブハウスを幾つか経営している奴がいる。その一箇所で、住み込みの管理人を募集してるんだ。丁度、今。そこに住み込んで、また、ドラマーに復帰しろよ! 俺達のバンドの。ネットカフェ流浪人やってるぐらいなら、ライブハウスの住み込みなんて、『へっちゃらのちゃら!』だろうがっ!」

 と、嫌がるドラマーを無理矢理、知り合いのライブハウスまで引っ張って行ったのだった。

 ライブハウスのステージ上のドラムを見て、ドラマーは、

「俺、まだ叩けるんだろうか……」と、ぽつりと言った。

「やってみなけりゃ、分かんねぇだろうがっ!」

 相方は、ドラマーの肩をぼんっと、強く押した。

 ドラマーはそのまま、そこの住み込みとなった。

 今、ドラマーは、何かに憑かれたように、七年間の時間を取り戻すかのように、ドラムの練習に励んでいる。

 バンド休止の後、学校へ行き、正式に音楽の勉強をした相方は、ドラマーの演奏を聴きながら言う。

「ブランクで、少し技術が落ちてたって、それ以上に、音に深みが出てる。行けるぜ」と。

 この七年間――アキラも、シンセ担当も、日々、色々な所で、数限りないセッションをして来た。決して、自分達のバンドを諦める事無く。

 そうして遂に、バンド再結成となったのだ。七年と云う時間を経て。

 

 アキラは歩道橋階段を見上げ、呟く。

「そうなんだよな。この駅こそが、うちのバンドの拠点――と言える場所。何処でとうしていようと、回帰すべき総ての原点。Return to the basics――戻って来れば、その後は、Go to start all over again。それが、駅ってもんだ!」

 アキラは、妻の手元のキャリーを見遣り、

「大きな変化と共に、『いざ、セカンドステージへ!』だよな」と、しっかりと頷く。

「さっ、行こう!」

 アキラは、妻を促し、大荷物を抱え、胸を張って歩道橋階段を上り始めた。

 

 ころころとした毛玉のような子猫達は、右へ、左へと可愛い足で駆け回る。右へ、左へとゆっくりと動く尾っぽを追って。

大きく目を見開き、大きく耳を立てた子猫達は、小さな後ろ足で立ち上がる。上へ、下へと、ぴっこぴっこ動く尾っぽの先を、可愛い両掌で捉えようとして。

 今なら分かる。あの時の父親の事が。‘子供と遊ぶ’と云う事が何であるかが。

 子猫を見ているだけで、至福の時だ。終日であろうと、決して、飽きはしない。

 俺の今の顔は、あの時の親父のような顔をしているのだろう。

 

もつれ合う子猫は、互いに咬み合い、また、互いに猫パンチを繰り出す。何回も、何回も。

かと思えば、まどろむ俺の身体に、一斉によじ登り、重なり合っては、転がり落ちて行く。

それを、何度も、何度も繰り返す。

 うとうととした眠りに、ふと現れる。昨日来た道が。

 それを辿り、遊んでやれなかった子供達の所へと帰る夢を見る。

 その先に更に続く、懐かしい匂いの香る、無性に辿って帰りたくなる道の先に居るのが、誰かは、もう知っている。

 親父がどうして消えたのかも、もう分かっている。この道を辿って帰って行ったのだと。

 

興奮した子猫達は、がじがじと噛み付いて来る。手へも、足へも、背中へも。

ぶるるんっと、身を振って転がすと、それぞれに身構え、次々に跳び付いて来る。

それを、ころりん、ころりんと、片手で転がしてやる。

子猫達は、何度も、何度もやって来る。

 昨日来た道――夢で辿る道。その先に在るものが何かは、もう知っている。

 俺もいずれ、辿る道。けど、親父。もう少し待ってくれ。

 俺はこの子達に、教えておかなければならない事が、まだ沢山ある。俺は、ジュニの親父や宗太郎兄貴に教わる事が出来た。だが、この子達には、俺しか居ないのだから。

 

遊び疲れた子猫達は、母親の腹の下へと潜る。

押し合い、へし合いしつつ、こっくこっくと、おっぱいを飲む。

そしてそのまま、眠り込む。皆そろって、小さな可愛い寝息を立てて。

 俺は目を細めて、それを見遣る。

 そう、もう少し。まだ、もう少し先だ。昨日来た道を帰って行くのは。



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